その後の 私

終戦の日から こんにちまで
  私の人生を振り返ってみました。
主要な項目には ★ 印を付し「その後の私 写真集」に文、画像をスライドでUPしました。
 
増設(昭和25年)
増設(昭和25年)
私の経歴、創業の動機を尋ねられた後、担保を設定する証書貸付ではなく、手形貸付で借入れできました。整経機を入れ、自宅横に平屋を建て(写真 左)広幅中古織機6台設置しました。衣料不足の折、綿布はブローカーや運び屋おばさんに飛ぶように売れ経営は順調でした。お客の需要に応えるべく24時間操業しました。昼は工員、夜間は家族での操業ですが、原糸の調達、機械の故障修理と私は多忙を極めました。でも若さと儲けで、あまり気になりませんでした。
ガラ紡 ネル
ガラ紡 ネル
生産量の増加と共に名古屋の問屋さんと取引するようになった。問屋の要請によりガラ紡ネル生地を試織する事になった。縦糸に綿糸、緯糸にガラ紡糸の整織は可成 難しかったが密度の調整、織機の低速運転など研究の結果、試作に成功した。起毛加工した幻のネルは、この時期 低価額と少ない商品のため売上 順調で問屋も私もドル箱商品となった。
代金の受取手形はみな成岩信用組合で割引し、次の原糸購入資金とした。(写真は織物の修正風景)
初めて持った自分の土地
初めて持った自分の土地
(稼動中の44吋織機)
 
この頃 日本経済はドッジ・ラインに沿った超緊縮予算デフレで深刻な不況に見舞われていたが、
繊維業界は価格統制(公定価格)されていたから作れば 即 売れて行き 好景気に恵まれた。
信用組合の好意で融資枠も増え、自己資金も加へて隣地200坪(坪当り2,500円)を山田佐一氏より取得し、織物工場49.6坪と工員宿舎
12坪(2F)を建設し44吋織機20台(@45,000)18吋織機26台(@12,000)を設置した。
5月 榊原清三氏が成岩信用組合 専務から理事長に就任した。
6月に朝鮮動乱が勃発した、協定調印まで續き、その間、日本は特需景気におどった。
設備台数も増加したので女子従業員を知多半島南部の漁村から募集し、男子機械保全工も雇った。
 
新妻 奮闘す
新妻 奮闘す
家内は嫁いで3日目から管巻き作業をして呉れました(管巻機で横糸を巻く)事務処理も行い私を援けてくれた働き者でした。特需景気と東南アからの発注が増え、私は之に対応すべく、商業学校時代の先輩を頼って伊藤忠商事(CI)名古屋支社(昭和24年までは大建産業)綿糸布課と取引するように為りました。
10月綿スフ織機設備制限が撤廃されました。
(計算する 家内)
取引先 (昭和26年)
取引先 (昭和26年)
CI名古屋、綿糸布課は当時、福井課長以下7名で内外の綿糸布取引の外、産地機屋への取引を拡大しつつあった。取引形態は糸買い、布売りの売買形式で決済は双方45日手形、私は受取手形は成岩信組とその後取引を開始した日本勧業銀行、協和銀行各半田支店で割引した。輸出好調でインドネシア向けに超広幅織物が多くなり、伊藤忠機械部より65吋織機(石川製作所製)8台を導入する事になった。
この為建設費45万円で62.5坪の工場(第一工場)を建設した。12.5坪は検査場に用途変更した。      (写真は インドネシアの織物工場)
CI宮崎さん*慰安旅行
CI宮崎さん*慰安旅行
当時のCIに宮崎(謙)さんが居ました。私は頻繁に名古屋支店を訪れましたが、彼もまたよく知多地区に来られました。彼は家内が作った工員用野菜味噌煮込みを、旨い!と言って食べて呉れる気さくな人でした。
そんな人柄の彼と私は気が合いました。若い私に物心共に支えて呉れた恩人として今も感謝しつゞ思い出しています。
従業員の増加と共に工員慰安旅行を毎年行うようになりました。この年長男(正文)が生まれました。
価格統制(昭和26年)
価格統制(昭和26年)
 
糸、織物の価格統制は、昭和14年の価格統制令、同21年の物価統制令によって統制され、戦後も引き續き実施され、
その時々の経済情勢の変動により、しばしば公定価格が改訂されていったが、その価格改訂も猛烈なインフレーションの進行により、すぐに実情に沿わなくなった。公定価格とヤミ価格には時には数十倍もの開きがあったが、ドッジラインによるインフレ抑制政策の進行に伴い、次第に格差は縮まり統制解除直前の昭和26年には、全く差は無くなっていた。(写真は宮崎氏)
知多信用金庫(昭和26年)
知多信用金庫(昭和26年)
昭和26年6月信用金庫法が公布され成岩信用組合に10月20日待望の免許が大蔵大臣より届いた。この頃の業績は預金1億193万円、貸出金5千404万円 翌 昭和27年6月名称を知多信用金庫と改称しました。初代理事長は勿論 榊原清三氏
清三氏は特に私に理解を示して下さいました。私の積極経営姿勢と、彼と私の実母が同級生だったこと。
そして私の幼少の頃からの生い立ちを知って居るようで、そんな私に力を貸して下さったものと思っています。
金庫内では厳しい理事長でしたが、私には優しいお父さんの様でした。。
綿織業界は朝鮮動乱による特需ブームも終り動乱後の反動不況に入りつつありました。(伊豆のゴルフ場での清三氏)
法人組織とする(昭和27年)
法人組織とする(昭和27年)
朝鮮動乱の終息で動乱特需も無くなり、織布業界も不況色が濃くなって行った。
綿工連(日本綿スフ織物工業協同組合連合会)主催の危機突破大会が東京で開催された。
政府の計画生産により国有綿方式が廃され、輸入綿は紡績に払い下げる方式に変り、輸出入とも民間
ペースに切り換えられた事により、紡績の権限が拡大し機屋への原糸供給が少なくなり、この為
紡績の賃織を行うか、貿易商社の賃織をする機屋が増加した。
こうした厳しい状況の中、生産規模の小さい私の工場は紡績下請け適格工場とは成らず、
売買方式を一貫して行った。そうした中、対外信用と税務を考慮し12月27日法人組織とし
社名を豊栄織物(有)とし取引先も伊藤忠のほか、丸紅、綾羽、平和繊維等数社とした。
特定中小企業安定に関する臨時処置法公布、織機設備登録制が開始された。(写真は経糸通し作業) 1本ずつ通す。
昭和28〜30年
昭和28〜30年
是より各年代別に記録し
主要な項目には ★ 印を付し「その後の私 写真集」に文、画像をスライドでUPしました。
 
☆ 28年1月 顧問税理士;同族会社ながら法人組織とした為、顧問税理士を平瀬末喜氏に依頼した。
        当社担当に中川洋二氏(当時 愛知大学生)と決まる。
☆ 28年5月 知多信金;知多信用金庫乙川支店開設 支店長に竹内惣九郎氏 就任
☆ 28年6月 リンク制;繊維局 輸出リンク制を実施する
☆ 28年6月 次男出生;次男 英明生れる
☆ 28年9月 13号台風;台風13号にて工場及び自宅に1m.浸水 被害を受ける(電柱倒れる)
☆ 28年10月 金融引締;国際収支の悪化で戦後初の量的金融引き締め政策はじまる。
★ 28年11月 自動2輪・12月小型四輪免許取得、CABTON(500cc) 購入
☆ 28年12月 平和繊維;取引先の平和繊維(株)(名古屋)倒産 売掛債権80万円債権放棄する
☆ 29年11月 商社倒産;大阪、岩田商事、丸永 など倒産相次ぐ。
☆ 29年11月 織機登録;綿スフ、毛織機などの登録制(アウトサイダー規制)始る。
☆ 30年11月 自民党; 保守合同により自由民主党 発足
☆ 30年12月 輸出停滞、異常在庫等の悪材料により綿紡績の操業短縮が續き下請け機屋も受注工賃の低下、賃織数量削減等で採算割れに各社 苦慮する。
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Last updated: 2006/6/13